時間の本質はどこにあるか

現在未来過去のどれが本質的な存在なのかを、
それぞれの主義の一説を解説したのち、筆者の意見を述べる。

時間には三種類、現在未来過去がある。
そのどれが本質的なものかを議論している人々がいるようだ。

1.現在中心主義

この世界で存在するのは現在だけだ。過去も未来も存在しないという思想だ。
アウグスティヌスが言った。「3つの時があるとは言えない。ただ、過去としての現在、現在としての現在、未来としての現在があるのだ。過去としての現在は記憶として、現在としての現在は直感として、未来としての現在は予見として存在する」と。
我々は「昨日のご飯は美味かった」だとか、「明日の天気は晴れらしい」だとか話すけれど、過去という存在は誰も見たことがない。我々が記憶というものを媒介にして過去を見ているというだけで、過去は見ることも触ることもできない架空の存在だということだ。

世界は五分前に誕生したという思考実験を知っているだろうか?
すべての物質が五分前に、ちょうど五分前の位置に突如として生まれたとしても何ら矛盾は起きないという思考実験だ。
唯物論の科学では、我々の記憶も何もかも物質でできていると言う。
この世界のすべての物質をそっくりそのまま何もない空間にコピーペーストしたとしたら、ペーストされた我々は当然その瞬間以前の記憶を保持している。
全人類が過去の記憶を持っていたとして、どうして過去があることを認められるだろうか。いや、認められない。
唯物論の上で成り立っている思考実験だが、十分可能性はある。

現在と過去をつなぐのはただただ記憶だけなのだ。

フッサールという哲学者も現在中心主義で、彼曰く
「過去も未来も現在の私が想起していることだよね」(超訳)

結局、現在しか存在しないのか?

2.未来中心主義

未来こそが本質的だ。
この世は未来が現在になり、そして過去として過ぎ去ってゆく。常に現在は未来から一方的に送られてくるのだ。現在も過去も未来によって作られるということだ。
人間は記憶を頼りに現在に過去を見出す。だから過去から未来に時が進むように感じるのであり、実際は現在が無に消えるのを補うかのように未来が現在に移動しているのだ。
このように言った日本人がいるのだが、笑止千万である。
皆は音楽編集ソフトを使用したことはあるだろうか?

ある音楽編集ソフトでは赤色のシークバーが時間に合わせて右へ移動する。しかし、シークバーを固定して音源の表示(ギザギザのやつ)を左へ移動させることもできる。
要は、この移動というのは相対的なものだということ。

時間を過去から未来へ移動させることと、時間を現在に固定して、空間の方を未来から過去へ移動させることは全く同じことだ。

地球が太陽を廻っているのか、太陽が地球を廻っているのか。そんなものはナンセンスだ。同値である。

別の人物を挙げる。

ベルクソンは「過去というのは空間に蓄積され、決定された存在だ。純粋な時間ではない。一方、未来というのは未決定で本質的な、純粋に時間として存在する時間だ。その間を連続的につなげる現在として、我々は主観的に知覚している」(超訳)といった。
これによると、純粋な時間として存在するのは確かに未来である。過去は空間と一体化してしまったからだ。
ケーキには砂糖が含まれているとは言っても、砂糖の本質はケーキだとは言えない。しかし、砂糖の本質が砂糖の塊だとも言えない。砂糖とは何だと聞かれたら、「それは砂糖の塊です」と言うのは誤りだ。本質とはそれ自体をより抽象化した、いわばイデアの概念だ。
「砂糖の本質とはなんですか」
「それは、砂糖のイデアです」
こちらはなんの説明にもなっていないが、一応答えにはなっている。
何が言いたいかというと、現在未来過去のうちどれが本質的なものかという議論において、時間の純度が高いものが本質的なのではなく、時間の本質が現在未来過去のどこにあるのかを議論すべきだということだ。

3.過去中心主義

これはカントの認識論が有名だ。
カントは言った。「ものを見るとき、我々はそのものを見ているのではなく、我々が認識したものを見ているのだ。認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うということだ。」これをコペルニクス的転回という。
例えば、我々は虹を七色だと思っている。しかし、他国では虹は6色であったり、5色であったりする。同じ虹なのに、何故認識する色の数が違うのだろうか?
それは、対象が認識に従うからだ。日本人は虹は7色だと刷り込まれているから、虹を見たときに7色だと認識する。認識した虹は認識した通りに我々に知覚させる。

認識とは経験の知覚である。我々は今この瞬間、この記事を見ているのではない。この記事を認識し、知覚した過去の経験としてこの記事をみているのだ。

分かりやすく言い換える。
過去の経験として過去を想起し、過去の経験として現在を知覚し、過去の経験から未来を予期する。
アウグスティヌスの言ったことはそっくりそのまま過去中心としても成り立ってしまった。

筆者の意見

時間の本質は現在未来過去のどこにあるだろうか。
私はこの議論をすること自体が誤りだと思っている。
この議論の定義を考えればわかることだ。

  • 時間が存在する(時間の存在)
  • 我々が知覚しているこの瞬間を今とする(現在の定義)
  • 我々が既に起きたと思っている時間の方向が過去であり、その逆方向が未来である。(未来過去の定義)

恐らく私が思うに、この3つを前提として話が進んでいる。

この前提の上で、時間の本質はどこにあるかを議論している。
これは、整数の定義に通ずるものがある。

  • 自然数が存在する(自然数の定義)
  • 0が存在する(0の定義)
  • 自然数aに対し、a+b=0となるbが存在する(負の定義)

これと比較して考えれば、時間の本質が現在未来過去のどこにあるかは、整数の本質が負の数、0、正の数のどこにあるかと同じであることがわかるだろう。

これはナンセンスだ。

つまり、私の意見は「この議論自体が無意味なものである。結論など存在しない。」だ。

アナロジーの注意事項が満たされていない可能性や、定義が誤っている可能性があるので、これは必ず真だとは言えない。

追記:立体を切ったら平面が出る。よって平面は立体に含まれる。三次元空間に時間軸をくわえた四次元時空に対し、時間で切ると空間が出てくる。よって空間は時間に含まれる。時間の存在があって空間があるという主張があった。
「時間を哲学する」という本の内容だが、こんなものは科学でも哲学でもなんでもない。
よく考えてみよ。距離という軸3本でできた空間のうち、1本の距離軸で切ると残りの2本の距離軸による面が出てくるのは正しい。そして2本の距離軸による面は3本の距離軸からなる空間に含まれる。しかし、時間軸で切って出てきた空間は4次元時空に含まれるわけであって、時間軸に含まれているわけではない。
仮にこの空間は時間に含まれる云々の議論が成立するとしたら、4次元時空を空間で切ったら時間が出てくるから、時間は空間に含まれるという結論もえられる。よって空間という存在があってその上に時間があるとも言えて矛盾。
参考文献

◆◆「時間」を哲学する 過去はどこへ行ったのか / 中島義道/著 / 講談社



告白(下)改訳 (岩波文庫) [ アウレリウス・アウグスティヌス ]



時と永遠 他八篇 (岩波文庫) [ 波多野精一 ]




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・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他