トロッコ列車の思考実験

今回はトロッコ列車の思考実験を取り上げる。
功利主義と義務論の説明をした後、私の意見を述べる。

あなたは今、トロッコ列車の運転手だ。このまま進むと五人の人間を確実に全員轢き殺してしまう。しかし、その前に列車の分岐点があり、レバーを切り替えると一人の人間を確実に轢き殺すことになる。

あなたはレバーを引くだろうか?

功利主義

功利主義とは「最大多数の最大幸福」と主張したベンサムで有名だ。つまり、幸福や不幸は量があり、その総量が多くなるものが良いものだとする考え方だ。
この考え方によると、当然不幸を感じる人数は少ないほうが良いから、レバーを切り替えると主張するだろう。

一人を犠牲にして5人を救うのか?

これは、一人に仕事を全部任せて残りの全員が楽をするのを肯定するようなものだ。

功利主義ならば、次の例も肯定しなければならない。

ある医者がいて、五人の患者がそれぞれ腎臓、膵臓、肺、心臓、肝臓の移植が必要だったとしよう。そこにある健康な人間が健康診断しにきた。もし、医者が健康な人間を殺せば、五人は助かる。そして死ぬのは一人だけだ。

医者がその判断を下した場合、正しいだろうか。一般に正しくないと答えるはずだ。仮に正しいと主張した人がいれば、その健康な人間にあなたが選ばれる可能性があることを忘れている。
自分の自由意志に反して殺されるのは殺害と何ら変わらないのではないか?

この議論は二重結果論という方法で違いを説明できると言う人がいる。

二重結果論とは、行為それ自体と引き起こる自体を別々に考えようという思想である。
要は、意図して殺したわけじゃないなら許されるというのが二重結果論だ。
トロッコ列車の例ならば、レバーを引くことと引いた結果一人死ぬことは別々で考え、レバーを引くこと自体は誤りではなく、レバーを引いた結果として意図せず人が死ぬからこの場合にレバーを引くことは許される。
しかし、移植の例では、健康な人間の許可なく移植すること自体が誤りだからこの場合は許されない。

なんとまあ、表面的な話だと私は思う。
この二重結果論が肯定されるなら、病院に侵入して患者全員の酸素マスクを外す行為だって認められなきゃならない。押したら人が死ぬボタンを押すことは認められることになる。銃を撃った結果人が死ぬことが正当化される。

つまり、過失致死罪が許されるのが二重結果論だ。

二重結果論がどうであれ、功利主義の主張は正しいものではない。

義務論

義務論は正しい行いだけをしなさいという思想だ。義務論はカントが有名で、彼は定言命法という考えを生み出した。
私の理性が言う、「まさに〜せよ」という命令に従わなければならないという考えだ。例えば、学生であれば「まさに勉強せよ」と理性では分かっているだろう。
我々は常にこの考えに従わなければならない。仮にレバーを引くと、私は人を殺してしまう。
だが、レバーをひかなければ、運転手であるあなたは偶然交通事故を目撃しただけであって、人を殺してはいない。
だから、義務論視点ではレバーを決して引かないという結果が得られる。

これは正しいか?
私は誤りだと考えている。
センは言った。「お金のある人がダイエットのために食べず、結果飢餓になるのと、お金のない人が食料を得られず飢餓になるのは別物だ。前者は選択肢があったが後者はなかった。」と。
運転手には選択肢があった。レバーを引く選択肢とレバーを引かない選択肢だ。
そのうちレバーを引かない選択をしたのだ。そしてレバーを引かない選択肢により人が五人死んだ。あなたは五人を殺した。

自分の手を汚さなければそれで良いのか?
直感的に誤りだとわかるだろう。

しかし、間接的殺人が認められないとしたらそれはそれで矛盾が生じる。

極論を言えば、あなたがこの記事を読まなかったら地球の裏側で、ある交通事故は起きなかったかもしれない。つまりあなたの行動は間接的に交通事故を引き起こしている。
あなたが存在するために死んだ人間がたくさん居る。あなたが存在しなかったために死んだ人間も沢山いるのだろう。
どちらにせよあなたは人を間接的に殺している。
存在することも、存在しないことも罪なのか?それもおかしい。

一体何が間違っているのか?
それぞれをまとめてみる。

功利主義

  • 幸福の総量が多いことが正しい

→人権の迫害になる恐れがある

義務論

  • 常に正しい行いをしなければならない
  • 特に、人殺しなどあってはならない。
→間接的な殺人なら許されるのか?
(→間接的な殺人が許されないとしたらすべての存在が許されない)

筆者の意見

ここからは私の持論だ。
そもそも根本から間違っているのかもしれない。
すべての行為は本質的に認められる。
このようにすれば矛盾は一切生じない。
人殺しも許されるし、人権の迫害も許される。許されないのは、法律上の問題だ。
では、なぜ法律があるのかと言えば、それは生命の連続性という脳髄の命令を守るためだ。人類を絶滅させてはならない。だから法を作る。

もちろんこの「すべての行為は本質的に認められる」は、タイトル「私の価値観」に書いた根本思想「すべてのものは無価値である」から演繹されたものだ。
価値の定義は「善きもの、望ましいものとして認め、その実現を期待するもの」と辞書にある。これより、価値のないものは実現を期待されない。故にあらゆる行為を実現してもよいことになる。
例えば、絵画に美的価値があったとすると、価値は美の実現を期待するものである。仮に絵画を壊せば、その実現を損なう。したがってその行為は認められない。

一方、価値のないものは実現を阻害される行為というものが存在しないから、あらゆる行為が認められることになる。
ゆえに、すべての行為が認められる。
全ての行為が認められるということは、当然レバーを引いてもよいし、引かなくてもよい。そして価値がないのだから、どちらでも変わらないことになる。
ここで、「引くのと引かないので人数も死ぬ人も違うのだから、レバーを引くことと引かないことは同じじゃない」と言う人がいるかもしれない。
その反論に対し、私はこう答える。「大豆が一粒つぶれるのと、大豆が5粒つぶれるのは大差ない」と。
人間に価値があるのなら確かにレバーを引く行為と引かない行為は変わってくる。しかし、人間の命に価値がないと定義した私の思想によれば、価値のないものがいくら集まろうと価値がないのだから違いがないのだ。

私の価値観をこのトロッコ列車に適用させると、レバーを引くのも引かないのも変わらないからどっちでもいいという結論に至る。

しかし、これはあくまで理想論である。現実の私はそこまで薄情でいられることができない。究極的にはこうである必要があると考えているが、現実の私はそうもいかない。

私の思想と私の人間性を妥協した結果、私はレバーを引くかどうかは脳髄の司令した通りにするだろう。
私の理想的な思想ではレバーを引いても引かなくても変わらないからどちらでもいい。しかし、私には損得勘定、善悪感情、様々なものが渦巻いている。
結果、私の思った通りにレバーを動かせば私の思想に反することは無いうえ、私の脳髄も納得させることができる。
例えば、首相と末期癌患者5人であれば首相を助けるし、家族と一般人5人なら家族を助ける可能性が高い。
家族と人類全員では恐らく人類全員を助けることになると思う。それは実際にその場にいないとわからない。
その場に立った時に私の最もしっくりとくる決断を私は選ぶ。

結果は一般人と変わらないようだ。
結局私も価値のない価値に囚われているということか。




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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他