非難への批判

非難とは実につまらない行為だ。
そのまえに、批判と非難について区別しておこう。
批判:良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること
非難:欠点やあやまちなどを責めとがめること

そもそも、我々があれは良い点だ、これは欠点だと区別すること自体おこがましい。区別ができるということは己の絶対的な基準を持ち、その上でその基準に揺るぎがないことを自分で認めねばならない。
食を例に挙げる。
舌の肥えた人間は見た目や評判などの周囲の評価を気にすることなく、絶対的な自分の価値基準においてこれは美味い、これは不味いと定めることができる。そして、他者からそれは高価なんだぞと言われてもその基準が揺らぐことはない。この状態こそ、食において明確な区別ができているといえるだろう。
一方、そうでない人間は高価ならばうまいと錯覚し、見た目で判断し、結局それ自体の区別がつかないまま恣意的に判断する。
その「美味い」は本当に美味いのか?
美味いと思わされてるから美味いと感じるのではないか?私はこの疑念が晴れない。
つまり、私は食に対して無知である。無知な者が評価など出来やしない。
我々は何も知らないのに独断偏見で決断をしたがるが、それは自分が無知であることを認めたくないという現れであるように思う。

私は批評に対して批評しているのではない。浅薄な知識しかない存在の批判に対して批判している。
無知な者の批判は横行している。政治は良い例だ。無知な者が歪曲された一つの情報をもとに盲目的に今の首相はだめだと言っている場合は少なくない。

以前、共産主義は理想論、現実では続かないと主張した人が居た。
その可能性は十分ある。しかし、彼は共産主義について何も知らなかった。マルクス経済学についても、社会主義と共産主義のちがいについても、唯物史観についても。
よくそれでこんな主張ができたものである。知らず知らずの内に我々は他者に操作洗脳されているのかもしれない。
少なくとも、マルクスの唱えた最終終着点は可能性として存在するだろう。浅い知識の私から見て、合理性があるからだ。

浅はかな知識による自分の意見は自分の底を他人に曝け出すことになる。ああ、あいつはその程度の知識なんだな、と。何か主張したほうが賢く見えるように感じるが、誤りだ。解っている人間から見たらなんと滑稽なことか。

私が何を言いたいのかというと、批判することは自分の無知を曝け出すことになるのを自覚し、腹をくくれということだ。自分が無知だと自覚すれば知る努力をする。そして無知の空白を埋めることができる。

次に非難について考える。
非難は決定的に馬鹿を曝け出す行為だ。愚痴なり陰口なり非難なりする人間は教養がない破廉恥な人間だと断言できる。このように断言すること自体愚かさの表れであるが、自覚しているから許してほしい。

他者を非難するとはどういう行為か?

すべてのものはあらゆる解釈が可能で、陽気は能天気とも言えるし、物静かは奥ゆかしいとも、陰気とも言える。
他者を非難する構造というのは、まず何らかの自分の気に食わない行為を相手がし、(そしてその行為を悪く言うためにそのような言葉を使い、そして発言し、)他人に同調を得る。
問題なのは、その構造に自分自身が含まれていないことだ。
「あいつは俺にプリント見せてくれなかったから器の狭いやつだ」と人に言ったとしたら、それは自分のことを棚に上げてそう主張している。このように言った人間は常に他人に物を貸してきたのか?
「器の狭いやつだ」と言うのは、相手の器が狭く、そしてそれ以外の器がそれほど狭くないことが相対的に示される。つまり、間接的に「俺たちはあいつより器が広い」と言っていることになる。
果たしてそうなのか?

「あいつはばかだ」と言ったその構造に自分は含まれていない。当然、自分も馬鹿だと言うはずがない。
何故なら、非難とは相手を貶める発言であり、自分も馬鹿だと言ってしまったら貶めることが出来ないからだ。

自分が含まれていることに気付かないことは、教養が足りないからそうなる。私も含めてだが、視野が狭いということだ。少し哲学的な本を読めば、「大衆」なんかのキーワードと一緒に出てくるだろう。

非難は

1. 相手の行動が気に食わない
2. それを他人に伝えたい

の2つからなると先に主張した。
相手の行動というのは無数の解釈の仕方がある。一視点からみて悪手なものが、別の視点では良い手になることがある。
その行為について自分が不満を感じたのは、相手の心情、周囲の状況、自分の知らないことが無数にある中で自分の取るに足りない価値基準で杓子定規に、相手の行動を測ったからだ。

ある友人がデパートで、あるルーチンワークはする必要がないんじゃないかと考え、店の人と30分口論した後クビにされたそうだ。その友人の知識の範囲内では無意味だったものが、別の知識を知っていれば重要であると理解することができるものもあるし、そもそも無意味だったのかもしれない。
公共のゴミ箱で空き瓶とカンなど捨てるものは分類されているのに、どちらに入れても同じ1つのゴミ箱に入ってゆくものがあるのと同じように。
これもまた、別の視点では意味があるのだが。

他人に伝えたいというのも自分を律することが出来ない愚かな行為だ。その人はそれを聞いても困るだけである。偶然馬が合えば盛り上がることもあるが。
いずれにせよ、非難は愚かであることに変わりはない。

非難とは自分の視点の矮小さを露呈させる行為である。
批判とは自分の知識の底を露呈させる行為である。

私の思考体系を採用すれば、自分が取るに足りない人間だと誰に思われても別にどうでも良いことだし、私の底を誰に見られてもどうでも良いということになる。ただ、非難は煩悩であるから楽に生きることが出来なくなるため、非難することは私にとっては稀である。




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・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他