私の価値観

私の思想について語る。
生きるのがつらいひとは必見

私は生きるということに何ら価値がないと思っている。

いや、この世のすべてに意味もなければ価値もない。存在すら疑わしい。そう思っている。

これから私の価値観を紹介しよう。

注意:以下の価値観は私の理性が究極的に物事を突き詰めた結果である。当然私には理性と本能の両方があるし、以下の価値観を認めつつも本能としてそれを認めたくない思いもある。以下の主張は理性という狂気であって人間的ではないことを先に述べておく。

 

根本原理:すべての物に価値がない

私の思想の根本がこれである。

私は恥ずかしながら、中学生までは(下手すると高校2年生までか)世界の中心は自分であると錯覚していたように思う。確かにそれはある意味で正しい。

例えば天動説という考え方がある。宇宙は地球を中心に回っているという思想である。これは正しい。なぜなら、地球を座標軸の中心にとれば、あらゆるものは地球を中心に運動するからである。しかし現代で地動説が受け入れられているのは、太陽を座標軸としたほうが運動が簡単だからである。

天動説のように座標軸を地球にすると、「惑星」の名前の由来通り、星がわけのわからぬ動きをしているように見える。一方太陽を座標軸にとれば回転運動という最も簡単な形で表せる。だから現代では地動説を採用したのだ。

実際、地球が太陽を廻っているのか太陽が地球を廻っているのかは分からない。

 

話を戻そう。当然世界の中心に居た私は傲慢であり、些末なことに腹を立てた。私は自分に価値があると絶対視していたし、あいつは頭が悪いから価値が低いと見下しもした。

だが、頭がいいことは価値のあることなのか?私は価値があるのか?

高校で倫理を学び始め、この疑問にぶち当たった。もしかしたら私は社会で代替可能な歯車の一つにすぎず、ちっぽけな葦なのかもしれないと怖くなった。

じゃあ、何故価値がないと怖いのか?

私は仏教を学び、それに気づいた(私は仏教徒ではないし、信じてもいない。ただ、ブッダの思想が好きなだけだ)。価値がないと不安に感じるのは脳髄がそう思わせているからだ。

子孫繁栄をこれまで確実に遂行してきた脳髄。その支配が私にも及んでいるのだ。自分に価値がないと認めてしまうと自殺をしてしまうかもしれない。だから普段そう思わせないように脳髄は思考誘導をしてきた。時に喜びという飴を与え、時に苦痛という鞭を与え、私を子孫繁栄の奴隷にさせていた。

だから、私はまず脳髄の支配から脱却する必要があった。その方法の一つが「万物に価値がない」と認めることだった。

当然万物に価値がないのだから私にも価値がない。私のすることにも価値がない。私は誰が誰に殺されても別に構わないし、誰かが私を殺しても別に構わない。世界が崩壊しようが、むごたらしく私を拷問したあと長く苦しむように殺そうがどうでもいい。理性ではそう考えている。

仏教聖典や、三木清「人生論ノート」に記載されていることだが、この世界なんてどうでもいいと思っている人間は自殺することはないそうだ。この世界に執着して執着して、希望をもって、それでもうまくいかず絶望をした結果自殺を選ぶのだ。この世界なんてどうでもいいと思っている人間は生死に無頓着だから結果として最も自殺しにくい。

まずはこの世界が無意味で無価値だと認めてしまえ。自分がどうでもいいことに苦しんでいることに気づくし、自分が苦しむこと自体がどうでもよくなるから。

結果、私の苦しみは確かに減少した。私にも本能的な部分があるから腹を立てることがある。しかしその時この根本思想を思い出すから怒りが失せる。あらゆる違いを寛容することができる。だがそれは同時に冷酷さを表すだろう。寛容はすなはち無頓着だからだ。他者をどうでもよいと切り捨てるその冷酷さ。

最近、寒いだとか熱いだとかそういう感覚も疑い始めた。私は今本当に寒いのだろうか、寒いとはいったい何なのだろうか、そう考えていると寒い寒いと感じていたものが不思議と和らいだ。

ただ、何か体が震え、何かの感覚器官が動作して変な感覚を私に送っているように感じた。私はどうやらパブロフの犬になっていたようで、その変な感覚を感じた瞬間寒い寒いと苦しむように条件づけられていたのだ!(当然限度がある。)

だから私は世界を、自分をどうでもよいと思っている。それを認めたうえで、法律に反せず、人間的な生き方をし、数学を学んで、クラシックを聴いて、新たなことに挑戦しようとしている。

この世のすべての物がどうでもいい存在なら、周囲に流されず私の好きに生きよう。

しかし面倒ごとは嫌だから、他人にわざわざ盾突くことはしないし、人を殺すこともない。人を殺すことは悪だともなんとも思っていないが、この思想の下であればそもそも殺したい人間など存在しえないし、わざわざ殺したところでよいことは一つもないし、むしろ面倒ごとに巻き込まれる。

もはや脳髄に支配されていようがどうだっていい。ただ私の思った通りに生きるというのが現在の私である。ただの思考停止に見えるが、実際そうである。

ニーチェは永劫回帰を唱えた。

仮に人生が永遠に続き、毎日毎日同じことをし続けることになるとしても、それでも絶望せずに「よし、もう一度」と永遠に繰り返すことができるか?ということである。

人間は漠然と未来に不安を抱き、また、毎日同じように学校、会社に行き同じように勉強、仕事をし、同じように帰り、同じように寝る。それを死ぬまで繰り返すと思うと嫌になる。

些細なことじゃないか。生きることも死ぬことも。何度一日を繰り返したってどうだっていい。

ニーチェは「ツァラトゥストラかく語りき」を書いたように、東洋思想、仏教思想に共感したところがあったようだ。永劫回帰はまさに仏教的な主張なのだ。

 

また、永劫回帰は別の意味を含んでいる。

頭の良い中学に入学するため勉強し、頭の良い高校に入学するため勉強し、頭の良い大学に入学するため勉強し……と自分の目標を永遠に先延ばししするにんげんは不幸なにんげんだということだ。現状に満足しない。常に上を見上げている。そして満足しないまま死ぬ。

確かにこの類の人間は大成するだろう。彼らはそれに価値があると信じて突き進む。果たしてそれに価値はあるのか?

私は今、誰にも負けないくらいに数学を極めようと勉強している。それは、私がそうしたいと思ったからだ。今の私は上を見上げている。していることは彼らと同じだ。しかし、私はそれが実現されようがされなかろうがどうでもよいと同時に思っている。

満足することは決してない生き方だ。しかし苦しむこともない。中途半端な意気込みだから成功もしないだろう。それでもなお挑戦する。

無価値は無気力と同値ではない。無価値だからこそ挑戦的になれる場合もあるのだ。

一回すべての価値を捨ててみよう。

それが変化の第一歩である。

 


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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他