無常観とアパシー

先日、知人と議論をしていたときのことだが、友人の主張が段々と不明瞭になってきたので思わず強く「どこが誤りか言ってください」と言った。その返答として、

お前がそう思うんならお前の中ではそうなんじゃないの?俺はこの世界で正しい答えなんか一つもないと思ってるから、それは一つの答えだし、他にも答えがある。こんな議論不毛だ。

と言った。

この意見は確かに正しい。私がこのブログで展開する無常観というのは大抵、「それってほんとに自明なんですか?」と疑問を投げかけ、やっぱり答えなんてないねという結論が大半である。人のことは言えない。しかし、盲目的に答えがないんだと盲信することはあってはならないし、他者との議論真理の探究は別物だ。前者は肯定派と否定派に分かれ、互いにそれが正しいことを議論によって相手に認めさせる行為だ。ソフィストのプロタゴラスはどちら側についても相手を論駁できる天才であったらしいが、天才ならそれも可能だ。それ自体が真理でなくてもなんでもいい。詭弁であってもいい。詭弁を使うなら、相手から詭弁を指摘される可能性を考慮に入れなければならないが。

議論とは古語の「おもしろし」を追求する行為だ。相手をどう言いくるめてやろうか、それだけを考えれば良い。そのためにはその話題について深く考えなければならないが、それすらも面白い。そもそも人間というのはしることは楽しいことだと脳髄に条付けられているのだから。

一方、真理の探究というのは一筋縄ではいかない。真理は決して反例が見つかってはならない。反論の余地のない完璧な構造を持っていなければならない。
ニュートンの古典力学は運動の三大法則という仮定を土台にして、現代でもある程度通用する立派な城を築き上げた。しかし、その古典力学体系はミクロ視点では役に立たなかった。土台から誤っていたからだ。

反例の見つからない二つの理論があれば、そのどちらも真実になりうる。そもそも真理というのはこの世界の絶対的な何かを人間が解釈したにすぎないのだから、解釈次第でいくらでも表現ができる。その表現が必要十分に真理を表しているのなら、それが真理である。

量子力学

さて、量子力学では様々な解釈がある。
例えば、1点から一粒づつ電子を放出して、穴が二つ空いたスリットを超えた先はどうなるだろう。


このとき、電子は波と同じ振る舞いをし、干渉縞を描く。なぜ、粒子である電子がこんな動きをするのだろうか?

一つには、電子は波でもあり粒子でもあるという二面性を主張する理論がある。これが主流である。

もう一つは、電子が放出される瞬間、謎の、未観測の波が発生し、その波に乗って粒子である電子が動いた結果このようになるという考え方もある。

これをパイロット解釈というが、確かにこの解釈でも数学的になんの問題もないそうだ。どちらがただしいかなんてどうでもいい。太陽が地球を回ろうが、地球が太陽を回ろうが同じことだ。

真理は相対的か?

真理を主張するものは、反例が見つかってはならない、これに尽きる。その反例は論理的な反例でもよいし、具体的な事柄についてでもよい。反例のない理論こそ真理であると私は考えている。
そして私は一つの真理を見出したことは以前述べた。それは哲学者としてのブッダの思想だった。

一応述べておくと、仏教は本来宗教ではなかった。後の人間が信じれば救われるなどとあほなことを言い出したのがきっかけであり、ブッダ自身は哲学者として崇高な人間だ。大乗仏教とブッダを一緒にしてもらっては困る。ただ、無間地獄なるものが実際にないということを否定することはできないから、存在する可能性はある。ただ、私がそこに重きを置かないだけだ。

ブッダの思想を辿って行くと、この世の全ての主張は正しいとも正しくないとも言えないという結論が得られる。つまり、現在の私は別の記事「私の価値観」で述べた定義から演繹して得られる「正解など存在しない」は真だと思っている。

定義がどうであれ、この結論は現代の誰もが抱くことであろう。絶対的な真理など存在しない。真理は一人一人違う。そういう殻に閉じこもる人間が多い。

この結論でいいの?

まってくれ。君たちは他人に「正しいことなんて何一つない」と言われて、ちょっと考えてああ確かにそうだとすぐに自分の意見を張り替えた程度しか考えていないのだろう?そんな思考不足な上、「俺は真実なんてないと思って得るから」と言うだけでどの意見も認めない根拠になる免罪符を抱えたら一体どうなる?ますます考えなくなるはずだ。

相手の意見に反論したいけど理由が思いつかない、ならこれを言えばいいという便利な言葉。便利な思想。便利さに流されてはいないか?

この傾向は日本文化

日本人というのは外来の思想を柔軟に受け入れ、受け入れ、そしてそれらが共存する文化を創り出してきた不思議な国であると言われることがあるようだ。それは違う。日本人の思想構造が、すぐに新しいものに飛びつくミーハーだというだけだ。そして、既存の思想をすぐに投げ捨てられるのは人間の根源的な部分において、ある思想が自分を守っているからだそうだ。それは、仏教的無常観。仮に自分の持っている思想が誤りであっても、仏教的無常観が守ってくれる。だから安心して取り入れられる。真理など存在しないという根本思想のゆえ、どの思想にもすぐに順応できる。何も考えずに受け入れられる。相反する部分をうやむやにできる。そして碌に深く考えないから新しいものにすぐ交換できる。

丸山眞男はこれを批判したかったんじゃないだろうかという旨のエッセイを京大試験で読んだことがある。まさに日本人は私を含め、この病に陥っているのではないか?仏教的無常観は非の打ち所がない。私も認める真理だ。だから、歩みを止めるのか?

この世界に価値あるものなど何もない。だから、何もしないのか?いや、価値がないからこそあらゆる価値に縛られることがなくなるのではないか?相手が私に対して陰口を叩こうと、直接罵詈雑言を浴びせようと、等しく価値がない。だからその価値に縛られず、自分の生きたいままに生きることができるのではないか?

全てが無価値であると認めることはアパシー、無感動、無気力とはちがう。あらゆるものから解放される第一歩だ。ぜひ、私の記事の「幸福薬の考察」を読んでほしい。あらゆるものから解放されることがどれだけ重要であるかがわかる。

真理の探究も同じだ。この真理は現状の真理であって、反例が見つかるかもしれない。いや、これが正しかったとしても別に構わない。どちらにせよ、この真理はマクロ視点での話なのだ。我々の個人個人の視点では別の理論が作用している可能性があるし、そもそもこんな真理を日常生活に作用させたら人殺しが認められる社会となる。周りを見てみれば、殺人の倫理、ミトコンドリア置換、幸福薬の摂取、臓器移植など、我々は依然として熱く真理の探究をしている。

確かに仏教的無常観は真理であるが、真理の探究をやめてはならない。コギトである我々は考えることをやめてはならない。
賢さを他者に委ね、全てを他人任せにする生き方から脱却しよう。




1 個のコメント

  • あー私って文章下手くそだなあ
    脇道に逸れすぎて言いたいことも分散してる
    典型的ダメ人間の書く文章

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

    ABOUTこの記事をかいた人

    ・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他