梶井基次郎「檸檬」

梶井基次郎の檸檬はかなり有名な短編小説であるが、理解できない方が多いのではないだろうか。
今回は檸檬に関する個人的な見解を述べる。

ポイント

この小説を読む上で重要なポイントが3つある。
1.不吉な塊とは何か
2.現実を象徴するものは何か
3.妄想を象徴するものは何か

先に結論をいうと、
不吉な塊とは現実である。
現実を象徴するものは普段ありふれたものである。
妄想を象徴するものは珍しいものである。

これを踏まえて読んでみよう。

解説

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。結果した肺尖はいせんカタルや神経衰弱がいけないのではない。また背を焼くような借金などがいけないのではない。いけないのはその不吉な塊だ。以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなった。

はじめのうちは普通の暮らしをしていた。しかし、借金を借り始めたり、病気になり始めたりすることで普通の生活が送れなくなった。
主人公は借金や病気に追われていた。

本来は借金や病気が不幸なのだ。現実そのものは不幸ではない。
しかし、現実に生きる主人公は日に日に不幸を背負い、また背負いと不幸が雪だるま式に膨れ上がってゆく。

そうして主人公は現実こそ諸悪の根源だと誤認するようになる。
その現実から逃れるために主人公は徹底的に現実逃避をする。
酒を飲み、妄想をする。

しかし、どんなに目をそらしても、ふと現実を直視してしまう時がやってくるのだ。

我々が、ふと「自分はなんで生きてるんだろう。なんで働いているのだろう」と考えてしまうように。麻薬を摂取してもいつかその効果が切れるように。

その瞬間はこれまでもやってきたし、今回もやってきたし、きっとこれからもやってくるだろう。

今回主人公は妄想することで現実から目をそらそうとする。

ここで重要なのが「妄想を象徴するもの」の存在である。
我々が夢の中で、普段のように仕事に行き、普段のように生活をしてもそれは想像とは言えないだろう。
想像、妄想とはあり得ないこと、珍しいことを思い浮かべることでその世界にのめり込んでゆくのである。
だから普段目にするものを妄想しても意味がない。
それゆえ主人公は京都から何百里も離れた地を想像し、壊れかけた町並みを妄想する。

生活がまだ蝕むしばまれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば丸善であった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色ひすいいろの香水壜こうすいびん。煙管きせる、小刀、石鹸せっけん、煙草たばこ。私はそんなものを見るのに小一時間も費すことがあった。そして結局一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももうその頃の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。書籍、学生、勘定台、これらはみな借金取りの亡霊のように私には見えるのだった。

一方で現実の象徴は普段目にするものや馴染みの深いものである。
一般に、我々の好きなものは実に現実的である。
「食べるために生まれてきたんだ。食べるために働くんだ。」と食べるのが好きな人は言うだろう。食べることこそが現実であり、食べるための現実である。

そう。好きなものは馴染みの深いものであり、現実の象徴なのだ。

主人公はかつて好きだった丸善を見つけてしまう。折角妄想の世界に入り込み始めたのに、現実の象徴を妄想の世界で見つけてしまい、ふと我に返ってしまうということだ。

これはいけない。なんとかして妄想の世界に戻らねばならない。
主人公の精神を維持するために。

 その日私はいつになくその店で買物をした。というのはその店には珍しい檸檬れもんが出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈たけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。それからの私はどこへどう歩いたのだろう。私は長い間街を歩いていた。始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれを握った瞬間からいくらか弛ゆるんで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされる――あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。
 その檸檬の冷たさはたとえようもなくよかった。その頃私は肺尖はいせんを悪くしていていつも身体に熱が出た。事実友達の誰彼だれかれに私の熱を見せびらかすために手の握り合いなどをしてみるのだが、私の掌が誰のよりも熱かった。その熱い故せいだったのだろう、握っている掌から身内に浸み透ってゆくようなその冷たさは快いものだった。

現実の象徴を目撃した主人公は八百屋で檸檬を発見する。

この店で檸檬が売っているのは珍しいそうだ。
あり得ないことが起きている、というわけではないけれど、珍しいことが起きていることに変わりはない。

檸檬は妄想の象徴となる。

妄想の象徴を目撃することで再び主人公は妄想の世界により入り込むことになる。

この檸檬という小説は、主人公が現実と妄想を行き来する話なのだ。
妄想の世界、それは主人公の幸福である。普段と違って檸檬がある。普段と違って檸檬を買った。普段と違った自分だ。
ここは妄想の世界なんだ。

という具合である。

 

どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのは丸善の前だった。平常あんなに避けていた丸善がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。
「今日は一ひとつ入ってみてやろう」そして私はずかずか入って行った。
 しかしどうしたことだろう、私の心を充たしていた幸福な感情はだんだん逃げていった。香水の壜にも煙管きせるにも私の心はのしかかってはゆかなかった。憂鬱が立て罩こめて来る、私は歩き廻った疲労が出て来たのだと思った。私は画本の棚の前へ行ってみた。画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。それでいて一度バラバラとやってみなくては気が済まないのだ。それ以上は堪たまらなくなってそこへ置いてしまう。以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色だいだいろの重い本までなおいっそうの堪たえがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂鬱になってしまって、自分が抜いたまま積み重ねた本の群を眺めていた。
 以前にはあんなに私をひきつけた画本がどうしたことだろう。一枚一枚に眼を晒さらし終わって後、さてあまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持を、私は以前には好んで味わっていたものであった。……
「あ、そうだそうだ」その時私は袂たもとの中の檸檬れもんを憶い出した。本の色彩をゴチャゴチャに積みあげて、一度この檸檬で試してみたら。「そうだ」
 私にまた先ほどの軽やかな昂奮が帰って来た。私は手当たり次第に積みあげ、また慌あわただしく潰し、また慌しく築きあげた。新しく引き抜いてつけ加えたり、取り去ったりした。奇怪な幻想的な城が、そのたびに赤くなったり青くなったりした。
 やっとそれはでき上がった。そして軽く跳りあがる心を制しながら、その城壁の頂きに恐る恐る檸檬れもんを据えつけた。そしてそれは上出来だった。
 見わたすと、その檸檬の色彩はガチャガチャした色の階調をひっそりと紡錘形の身体の中へ吸収してしまって、カーンと冴えかえっていた。私は埃ほこりっぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。私はしばらくそれを眺めていた。
 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。
 ――それをそのままにしておいて私は、なに喰くわぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉こっぱみじんだろう

気づくと主人公は現実の象徴、丸善の前に立っていた。
妄想の世界に入り込んだ今の主人公ならと入っては見たものの、やはり現実と強く結びついていただけあって、どんどん不幸感を感じるようになる。現実に引き戻される。

主人公はここで檸檬を丸善のなかで爆破したらどんなに楽しいことだろうと妄想する。

檸檬という妄想の象徴で、現実の象徴を木っ端微塵に破壊する。これこそ妄想ではないか?

この妄想により完全に妄想の住人となった主人公は意気揚々として何処かへ去ってゆくのである。




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・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他