幸福薬の考察

もし、何の副作用のない、幸福感を感じられる薬があったとしたら、それは真の幸福だろうか。

森岡正博著「幸福感の操作と人間の尊厳」という論文を纏め、その上で私の意見を述べることにする。以下、彼の論文の主張である。(私の言葉で纏めてある)

幸福の概念を先に定義しておく。
幸福は主観的幸福と客観的幸福の二つに分類される。

幸福とは心地よさがあること及び苦痛がないことを意味している。不幸とは苦痛があること及び心地よさがないことを意味している

これはjsミルの功利主義における幸福の定義である。さて、ここで注目してほしいのが、幸福は心地よさや苦痛といった内面的な状態によって定義されていることである。これが主観的幸福だ。
一方、大切な人との関係、自己実現など外面的なものによって幸福が左右されるという者もいる。アリストテレスやプラトンは善い生き方が幸福だと言ったが、これは自分が幸福だと思っているわけではない。
ソクラテスは金銀財宝の乗った馬車を見て言った。「ここには私にとって価値のないものが詰め込まれている」と。金銀財宝があれば確かに不足なく、いやむしろ欲しいものがいくらでも手に入り、思うがままで主観的幸福は充足される。しかし、JSミルが言った

満足した豚より不満足な人間の方が良い。満足した愚か者より不満足なソクラテスの方が良い

のように、主観的な幸福に加えて別の幸福が存在するのだ。

幸福薬についての思考実験

副作用のない麻薬は使用していいのか?気分の良くなる薬は処方して良いのか?これらは以下の倫理的問題があるとされる。

  • ふさわしい理由がないのに幸福を感じたり、不幸なのに幸福だと思うのは自然ではない。
  • この薬によって不幸にたいする感覚が鈍くなり、不幸や悲劇を経験してそこから学び、他者の悲劇に共感する機能を低下させる。
  • 人類の真の繁栄の可能性を低下させる。

この議論を発展させるために、ある思考実験をする。

ここに、副作用のない完全な幸福薬があるとする。その薬をのむと、たとえどのような経験をしようとも2、3日のあいだ幸福感に満たされる。さて、ある親が小さな子供を連れて道を歩いていた。突然、暴走車が突っ込んできて、その子を轢き殺してしまった。親は動転してパニックになった。かけつけた救急隊は、親の精神状態を確かめてから、その親に完全幸福薬を注入した。親の心はすぐに幸福感に包まれた。そして親は、「今日私の子どもが殺されたが
私はなんて幸福なのでしょう」と言って、救急隊員に微笑んだ。

森岡が言うには、この思考実験がひどく歪んだものであるように見える理由は、その親が完全幸福薬の全面的な支配下にあり、そのような悲しむべき出来事を経験した時に「不幸を感じる自由」というものが奪われているからであるそうだ。
ハックスリー著「素晴らしい新世界」の主人公が言った「私は不幸になる権利を求めているんです」という言葉が思い出される。

カントは「道徳の原理」と「幸福の原理」を明瞭に切り分け、道徳の原理が上位にあると主張した。幸福であっても、道徳的でなければ駄目ということだ。
あり女性が強制的に完全幸福薬を注射されてからレイプされる。あるいはある男性が強制的に完全幸福薬を注射されてから拷問される。かれらは残虐な行為をされているわけだが、かれらは幸福を感じている。

このようなケースにおいて、「かれらは幸福なのだから何の問題もない」という人はいないだろう。殆どのひとが常軌を逸した侮辱行為が行われていると考えるだろう。かれらは、幸福感と引き換えに「人間の尊厳」を奪われているのである。

彼らには「不幸を感じる自由」がないのであった。その自由が奪われた結果、「人間の尊厳」が奪われたのだった。つまり、「尊厳ある生」とは「不幸を感じる自由」が保証されている生、すなはち幸福感に支配されない生であると言える。
この考えを拡張すれば、
尊厳ある生とは幸福や不幸に支配されることなく、いかなる欲望にも支配されない生である

でも、ずっと幸福だと感じてたらそれでいいじゃないか?

幸福薬を使用する権利はあるはずだ。JSミルが言ったように、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい。幸福に支配されていれば幸せなんだからそれでいいじゃないか。なにが悪いんだ。

こう言う人がいるかもしれない。しかし、ミルはこうも言った。

満足した豚より不満足な人間の方が良い。満足した愚か者より不満足なソクラテスの方が良い

ミルの自由論により確かにその行為は保証される。しかし、それは上等な生ではないのであろう。働かなくても困らないほどの金持ちがアルコール中毒で毎日アルコールを飲み干し、幸せを感じながら自堕落に生きてたとしたら本人は幸せだろうが、他人から見たら愚かに見える。

さて、森岡は尊厳ある生を以下のように定義した。
尊厳ある生とは、幸福も不幸もある人生を、誰の欲望によっても踏みつけにされず、自分の欲望によっても振り回されず、他人との関わりの中で自分の人生を悔いなく切り開いていくことだ。
この定義に従うと、例えば「ONにしている間だけ幸せになれるスイッチ」が開発されたとして、それを使うことは人間の尊厳を奪う行為だと帰結される。
このスイッチは本人が幸福になれるし、幸福から自由になる権利を共に持っている。しかし、人間はそれに依存しはじめ、OFFにすることが怖くなり、結果としてONにし続けることになるだろう。このスイッチは正当化されない。人間の欲望の結果である。

また、不幸のどん底にある人間が「不幸も幸福も感じなくなる薬」を投与したとしたら、不幸に振り回されて人間の尊厳を得られていなかったその人は欲望に惑わされずに生きることができるだろう。この点において、その薬にどれほど依存しようと、その人はその薬により尊厳を得ていると言う点で薬の使用が正当化される。

森岡の論文のまとめ

不幸のどん底から救い出すための幸福薬であり、その投与によって尊厳が保たれるなら薬を使っても良いし、依存して尊厳が保たれないなら使ってはならない。

私の意見

実に分かりやすく、定義に基づいた説明で文句ない。
だが、気に食わないのは、「子どもが轢き殺された親に幸福薬を投与した結果、親は子供が死んだけど幸福だと言ったこと」が歪んでいると断定したことと、尊厳の定義の前提条件が「我々は客観的に上等な生を歩まねばならない」「尊厳ある生は上等な生である」「他者の存在」であるところだ。

親は現在二重の感情を抱えている。子供を失った悲しみと、幸福薬による幸福感だ。結果、幸福感の方が強い感情であったために現在幸せを感じているのであって、子供を失ったから嬉しいわけではない。二重の感情が統合されたり、分散されたりすることは日常ではよくあることだ。例えば、かき氷を食べた時に冷たいという感覚が強大すぎて冷たいを感じる感覚の隣の痛みの感覚も作用され、痛みを感じる。徹夜して眠い中で、好きなスポーツチームが勝利したら喜びは確かに感じるかもしれないが、眠たさの方が強いはずだ。眠たいしか感じないかもしれない。
この思考実験の結果が極端なだけであって、日常にも溢れている。この結果が歪んでいるとするならばあらゆることが歪んでいるとしなければならない。
確かに、「程度」というものが存在する。すぎたるはおよばざるがごとしなり。中道が大切だと人はいう。仏教もソクラテスも孔子もみな言う。しかし、本質的なものに程度など存在するのか?我々が本質的に議論をする時、定義から始まり命題を証明する。「この命題は50%の確率で正しい」なんていうものは考えない。定義を仮定して、これが正しいなら絶対にこれが正しいとするのが本質的な議論である。「我々の感覚」などという曖昧なものは認めない。

次に、前提条件に関することを話す。
サルトル的であるが、何故我々は上等な生を歩まねばならないのか?サルトルの思想で言えば、何故我々は普遍的な人生の意味を見つけなければならないのか?そんなものに意味はない。
「何故人を殺してはならないのですか?」という質問に対して、「ダメなものはダメだからです」と答えているようなものだ。
他者から「善い」と言われることは本当に善いことなのか?この世界には、真に「善い」生き方をしたにもかかわらず誰にも理解されず、無名となった者がいるかもしれない。「善い」には他者の同意が必要なのか?
神の意志を人間程度の我々が理解できるはずがないように、イデアは我々には理解し得ないものなのかもしれない。他者が「善い」を理解できる保証はどこにあるだろうか。ここには多数決の原理など成り立たない。人間の能力の上限だからだ。人間が囲碁でアルファ碁に勝てないように。

ここまで突き詰めると、あらゆる議論が成り立たなくなってしまうから彼の論文でも十分と言えるが、やはり私の疑念は拭えない。




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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他