報道の腐敗

とある事件の報道を紹介した後、「危険思想」における例を考察し、
この報道が精神の自由の侵害であることを示す。

うろ覚えなので正確ではないかもしれない。

以前、ある男が病院へ侵入し、老人らの酸素マスクを外し何人も殺した事件があった。
その時、男はこう言ったそうだ。
「この世界に老人は要らない。老人を介抱しようとするからこの日本は廃れているんだ。老後、老いを感じながら苦しみながら生き続けるより、老いたらばっさりと死んだ方が両者のためだ。」
それに対して、報道記者がこう言った。
「彼は周りから普通のまともな人間だと思われていたようです。こんな危険な思想を持つ人間が周りに居て、それに気づけないってなんと恐ろしいことでしょう。」
そして周りの有識者はそれに賛同して居た。

私はこの報道を見て、なんとメディアは廃れてしまったのだろうかと感じた。

この日本はいつから精神の自由を剥奪されるようになったんだ?

彼の思想は誤りではない。そもそも完全に正しいものなど存在しないのと同様に、完全に悪である思想も存在しない。この思想は確かにメリットがあり、当然デメリットもある。

問題なのは

彼の思想そのものではなく、その思想の実現方法に、現代の法律に反する方法を取ったことにある。私はべつにどうでもいいことであるが、法律に反する行為や殺人行為などは反感を買いやすい。だからその方法で思想の実現をすることは容易ではない。
「あんなことをするやつの思想などろくなものではない」という印象を与えるからだ。

オウム真理教

例えば、オウム真理教という宗教団体があった。彼らはインドあたりの破壊と踊り神シヴァを信仰した宗教団体だ。

シヴァは破壊の神。シヴァが踊り出すと、世界は崩壊し、新たな世界が誕生する。

今の世界は悪が蔓延っている。この世は悪が栄えるなんとも腐敗した世界だ。なら、いっそこの世界を破壊して、新たな世界に善を求める方がよい。

こういう思想を黒の神学という。オウム真理教は破壊をシヴァにさせるために、あらゆる手段に講じた。そして、世界を一度破壊するために、サリン事件などを引き起こした。

黒の神学は悪の思想ではない。腐敗した専制政治を打開するために革命を起こし、新たな政治体系を築き上げた歴史などいくらでもある。大抵それらは「良い出来事」として扱われる。一方、革命に失敗したら「悪いやつ」というレッテルを貼られる。

要は、成功したら「良いやつ」なのだ。勝ったやつが正義なのと同じように。仮にオウム真理教が世界の実権を握ったとしたら、それは良いことであるという風潮になるだろう。たとえ幾人を殺そうとも、現代中国の毛沢東のように、「犠牲を払ったが新たな基盤を作り上げた存在」となる。

白の神学

当然、黒の神学の反対、白の神学というものもある。

生まれはアウシュビッツ強制労働場。そこに沢山の子供と1人の神官が収容されて居た。子供たちは絶望し、自殺をしようと神官に言った。すると神官は「この世に悪など一切存在しません。私たちが囚われて苦しめられているのも、悪によるものではないのです。だから生きなさい。」と言った。

要は、全てのものが善のために行動しているという思想だ。性善説と同じではないが、似たようなものだ。この神官は子供達を絶望させまいとそう言ったに違いないが、この思想は現代では決して認められない思想となっている。

仮にこの思想を認めると、ナチスを正当化することに繋がるからだ。我々が思う以上に、世界はナチスの行為を絶対悪だとしている。だからこの系統の本は禁書庫に入れられたそうだ。

これも「あんなやつのしたことを肯定するこの思想は悪だ」の典型だ。

今、両極端の思想を見せた。世界は悪に蔓延っている思想と、世界には善しか存在しないという思想だ。どちらも世間一般に認められて居ない。

それらは、それ自体が危険な思想ではない。その結果引き起こることが危険なのだ。滑り坂論法の一種と言える。

ポルポト

他にも、安藤昌益の主張した「全員農民になれば幸せだよね」という思想を実行し、大人を虐殺したポルポトがいる。安藤昌益の言ったことは悪ではない。誤りでもない。それを虐殺という方法で実行したポルポトが悪い(私は悪いなんて言葉をあまり使いたくないが)。

まとめ

本筋に戻すと、老人を多数殺したこの男の思想は誤りではない。思想と行為をごちゃ混ぜにしている。彼の思想を否定することは誰にもできないはずだ。勿論報道陣にも。

その上、危険な思想というのはいくらでも存在する。「誰も傷つかないように」と行動する輩はミクロ視点で誰も傷つかない行動をとるから、結局大局的に見ると全員が傷つくことになる。これだって一つの危険な思想である。これが度を過ぎれば大損害を社会に与える。

どの思想も「危険な思想」になりうる。それなのにこの男の思想だけを取り上げて危険だ危険だというのはおかしい。

そして彼の行為は現代法に反するから危険だというのも誤りだ。昔の法では許された可能性がある。未来の法では許される可能性がある。法律で許されて居たら彼らは「その行為は合法だから危険ではないよ」というのだろうか?

彼らはまず直感的にその行為が危険だと認知した。それを正当化する手段として違法性を挙げただけで、違法だから危険だと言っているわけではないのだろう。その直感は日本の施す道徳の授業により形成された、すなはち人間によって作られた道徳であり、誘導されている可能性があるが、それでもなおその行為が危険だと言うのだろうか。

私ならば、まずは全ての思想を一度受け入れる。その上で、社会にとって「有益さ」を指標に最良の思想以外は有益ではないと言うことで排除する。

この有益さというのもまた議論の余地が十分にあるが、上のように私は言う。ある定義に基づいた主張というのが最も効果的な主張だ。論理的展開がなされていて、定義にケチをつけられない限り、その主張は正しいからだ。
残るは定義の議論になるが、それは私の手に負えない。

私のブログのモットーは「新たな視点を与える」ということであり、視点を与えたらあとは放り投げる。私のなけなしの頭では底の底まで考えることができないからだ。許せ。




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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他