区別は良いことか

区別の境界を考察したのち、区別の善し悪しを判断する。

区別ってなんだろう。
私達はあらゆるものを区別する。例えば動物と植物、西と東、地球と太陽などと。

ブッダは言う。区別は差別だと。

大空に西も東も存在しない。ただ、人間が西と東を自分の都合の良いように差別しただけだと。
これは正しいか?
私は正しいと思っている。

例えば、人間について考えてみる。
爪が長い人は人間だろうか。人間だと皆答える。
右目が無い人は人間だろうか。人間だと皆答える。
指が六本あったら人間だろうか。人間かもしれない。
目が五つあったら人間だろうか。化物だ。
遺伝子の一文字が違えば人間でないのだろうか。一文字程度なら人間だろう。
遺伝子が2%違えば人間でないのだろうか。確かチンパンジーと人間の遺伝子の差異は2%だったから、人間でないのかもしれない。
人間の境界ってなんだ?それは厳密に定義されていないし、できない。

砂山のパラドックスというものがある。砂山から一粒取っても砂山だ。砂山から二粒とっても砂山だ。だが、取り続けていけば山は無くなってしまう。
数学的帰納法により、いくつ取り除いても砂山であるはずなのに、だ。
これは砂山の定義が曖昧だから生じるパラドックスだ。
仮に砂山を砂粒が10万粒集まったものと定義したら、10万粒を下回った時点で砂山ではなくなるからパラドックスが解消される。
では、9万9999粒の砂の集まりは砂山ではないのか?我々の直感では砂山に思える。
つまり、明確に区別を定義すると、我々の直感に反してしまう。

話を戻す。

どこまでが人間だ?

たった一文字ゲノム編集した程度で人間でなくなるのか?仮にそうだとしたら、人間の繁殖はそもそもゲノムが大きく変化するのだから人間が皆人間でなくなってしまう。
じゃあ10万文字のゲノム編集をしたら人間でないとすればよいのか?見た目は人間そのものなのに、人間ではないとするのか?

ここである解決法が浮かぶ。

区別するから矛盾するんだ。じゃあ区別しなければ良い。

区別は苦しみを生み出すとブッダはいう。
何かを区別することは、必ず差を生み出す。その差は優劣となり、俺は優れている、俺は劣っているという思想に発展する。
私に言わせればこの世のほぼすべてが選民思想だ。
日本人だから礼儀正しいと言う。日本人の自分は礼儀正しい人間なんだと自分の格を上げる。
人は○○大学だから彼は頭がいいと言う。「頭の良し悪し」という差異を持ち出し、自分と彼を区別する。暗に頭の良し悪し以外にも人間としての要素があることを心に思っていたり、謙虚な自分すごいと無意識かどうかは知らないが、そう思っている場合がある。
いや、初めは無心に凄いと思っていたとしても、そのうち人間の本能により嫉妬し、あら探しをして見下せる点を探すことになることもある。

結局、区別あるところに差別が生まれるのだ。
注意深くニュースを見てみよ。如何に選民思想が蔓延っているか分かるから。

人の知性は区別することで発展してきた。

あらゆるものに名前というラベルを貼ることで違いを理解し、部類分けして共通項目を抜き出し抽象化したり、傾向を探ったりしてきた。
それだけであれば区別は喜ばしいことだったのかもしれない。しかし、区別をつけると同時に差別も生まれてしまう人間の弱さがあったのだ。
ウパニシャッド哲学に、ブラフマンという宇宙根本の原理がある。そして、我々人間がその原理と一体化したとき、梵我一如といって永遠の幸福を得ることができる。
これは、区別をなくすことそのものなのかもしれない。区別がなければ私と他人の区別がない。当然私=ブラフマンとなる。
その境地こそが、苦しみの一切無い安寧の地、エピクロス的に言えばアタラクシアなのかもしれない。
アタラクシアとは、快楽主義(文字通りではない。注意せよ)エピクロスの唱えた、心が最も充実して精神的に心が最も安らかな状態であることだ。

区別は確かに知能を生み出す。知れることが増える。いつかは全知の神の領域に到達することができるかもしれない。しかし、同時に区別は苦しみを生み出すということがわかった。
価値のない発展を、価値のない知識を追い求めて価値のない苦しみを生み出すのか、価値のないものを価値のないものとして認めてしまうかは人によって違うだろう。

数学的証明

区別をすることで矛盾が生じることを数学的に考えてみよう。
自然数と整数、どちらのほうが多いだろうか。
これは同じ数である。

証明

xが奇数のとき、y=-(x+1)/2 xが偶数のとき、y=x/2という関数を考えると、ある整数を取ってきたら必ずそれに対応する自然数がある。逆もしかり。■

また、自然数と有理数も同じ多さである。

しかし、実数は自然数と同じ多さではない。

証明

0から1の実数とすべての自然数が同じ多さだとする。
a_1=0.0120333002…
a_2=0.0215332434…

a_n=0.53463734…
として、a_i(i=1,2,…,n)が0.○○○…をすべて網羅できることになる。a_1からa_nは自然数と同じ数であることは自明だ。
ここで、a_i番目の小数の小数第i位が偶数なら1、奇数なら0となるbを考えると、
a_1=0.0120333002…
a_2=0.0215332434…
a_3=0.125353223252…
a_4=0.78684545…

a_n=0.53463734…5

b=0.1121……2

全てのa_iに対して、それぞれbのi桁目が違っているからa_iにbは存在しない。よって実数のほうが多い。■

さて、これで実数が自然数より多いことが分かった。
実数は「連続濃度」とよばれる。ものが連続して続いているようにするのに必要な最小の多さということだ。

ところで、自然数というのは我々が区別できる量だ。数字を挙げれば、自然数、整数、有理数は無限に頑張れば書き表せる。しかし実数は√2などとべつの記号をつかっても、小数で書いたとしてもすべて書き表すことはできない。
先ほどの証明を見よ。全ての実数を書いたと思ったらまだ存在するというのが先の証明だった。

一方、実数というのはこの世界だ。この世界の実際の気温は実数上にあるだろう。ものの長さは実数だ。すくなくとも、有理数などと簡単な数字ではない。
我々は自然数の量しか区別できないのに、この世界は実数という巨大な量が存在する。
したがって砂山のパラドックスはなくならない。

これは、区別が全知へ到達できないことを示している。
何か根本的な解決策がない限り、科学はこの世界のすべてを表現できない。
 




2 件のコメント

    • 最後で気が抜けてしまったようです。飽きたのかもしれない。
      こういうコメントはほんとありがたいです。
      近いうちに書き足します。

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    ABOUTこの記事をかいた人

    ・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他