世界存在

世界は存在するのだろうか?
「なぜ存在者があるのだろうか?
いや、むしろ無があるのだろうか?」とハイデガーは言った。
世界が存在するかどうかを問うことで見えてくるものもあるだろう。
今回は存在における諸説を挙げる。

なぜ世界は存在するのだろうか?
この質問に対して、私はこう考える。
本当に世界は存在するのだろうか、と。

いまこうしてキーボードで文字を打っている私は考える。目の前のパソコンは存在するのだろうか、と。
確かに目で見て、手で触れる。分解すれば中身がちゃんと見えるし、投げれば家がめちゃくちゃになる。
それでもなお、存在するかどうかは疑わしい。もしかしたら、水槽に浮かぶ脳に電極が刺さっていて、私の視覚と触覚を外部から操作しているのかもしれない。
もしかしたら、この世界は仮想空間で、0と1でできた存在なのかもしれない。

疑って疑って、疑い切って、それでも疑えないものが唯一存在するとデカルトは答えた。

それは今知覚している私という存在だ。私が考えたり、触れた感覚が得られるのは私が存在しているからに他ならない。世界は存在するか疑わしい。だが私は存在する。
「われ思う、故に我あり」
この言葉の「思う」は、考えるだけではなくあらゆる知覚作用を表す。寝ている間私は考えていないが、たしかに脳は知覚している。だからきちんと寝ている間にも私は存在する。

これに付随して、ジョージバークリーも紹介しよう。

バークリーの言った「存在するとは知覚されること」は、知覚する存在がいて初めてそれが存在するということだ。
ここで注意したいのは、バークリーは神を肯定していて、神がすべてを見ているから我々が知覚できないものもちゃんと存在すると考えていたことだ。
五千年前の何処かにいたある狐はちゃんと存在する。それは誰も知覚することができないが神が知覚していたからだ。夜、我々は太陽を見ることができない。しかし神が見ているからちゃんと太陽は存在する。世界も神がいるから存在するのだ。

現代物理学

現代物理学ではこの「存在するならば知覚される」をかなり重要視していて、我々が目をつぶっている間は太陽は存在するとは限らないとされている。
従って、物理学的観点からは我々が観測している間は世界が存在するとなるだろう。
世の中のすべてのもの(身体や心、感情等)は物質によってできているという現代科学の唯物論では世界はちゃんと物質としてあるじゃないかと主張するだろう。

一方、唯心論では世界など存在しない、あるのはただ心のゆらぎだと答えるだろう。

果たしてどれが正しい?

どの意見も間違いだと言いきれない。だが、どの意見も正しいとも言い切れない。
我々にはそれを知る術はないのだ。
世界が存在するかどうかは肯定も否定もできない。世界が有るか無いかを言い切れる存在が居たとしたら、それは己が無知であることを知らない存在か、全てを知り尽くした絶対的な存在だ。

我々は無知であることを自覚し、受け入れなければならない。無知こそが知なのだ。
ブッダ、孔子、ソクラテス、キリストの四聖の一人、ソクラテスは残りの三人のうち最も業績が少ないように私は思う。
ソクラテスは「無知を自覚させよう」という目標を掲げ、通行人全員に生きるとは何だとか抽象的な質問をし、なぜなぜなぜと詰め寄り、そして自分は無知だからと何も答えない。主にそれだけだ(無知を知ることは孔子も唱えた)。
それなのに四聖の一人に数えられる。それは、無知であることを自覚することは非常に大切だからだ。我々は無知であることを自覚しなければならない。

閑話休題

世界が存在することは肯定も否定もできないことがわかった。
しかし、「世界はなぜ存在しているのですか」という質問に対し「世界は存在することは否定も肯定もできない」と答えるのはいささか変だ。
それは質問者と回答者の前提が違うからで、質問者は世界は存在することを前提としている。一方回答者はそれを前提としていない。

この質問に対する私の回答は「答えようがない」だ。
物理学的視点からみれば0=1+(-1)の式から無から有が生まれ、それの結合によってあらゆる物質が生まれた。キリストイスラムヒンドゥー教あたりの視点から見れば、世界は神が作った。いや、世界は初めから常に存在したのかもしれない。

世界は初めから存在した説

世界ははじめから存在したという件に関し、古代人ペレキュデスという人がいる。ギリシア神話の一解釈をした詩人だ。それ以前にヘシオドスという詩人も居たが、彼の書いた神統記冒頭は
「最初に カオス(混沌)が生じた」
と書かれており、無から有が生まれる矛盾を孕んでいた。
この無から有は生まれるのかという疑問は近代まで議論されていた。現代物理学は一つの答えを与えたことは既に書いた。
紀元前500年あたりのペレキュデスはこの疑問を見事解決しており、彼の詩冒頭は
「ザス(全能の神)は常に存在した」
と書かれている。常に存在させることで無から有の発生という矛盾を解消したのだ。

 確かに、世界が初めから存在したとすれば矛盾は起きない。初めから「無」が存在したのと同じように初めから「有」が存在したということだ。
どれも誤りとは言えない。絶対的な神が存在するかもしれない。世界は存在しないかもしれない。もしかしたら私が今知覚しているのは、金属中の電子が一瞬、特定の動きをした結果、我々の知る脳内神経ニューロンと全く同じ振る舞いをしたからかもしれない。可能性などいくらでもあげられる。
決定的な万物の真理など存在しないとはコントが言ったことだが、まさにそのようだと私は考えている。すべての物は何の根拠もない仮定から生まれるのだ。
ニュートンの運動の三法則は証明できない。この世界で自分の好きなように座標軸を設定できることは証明できない。この何の根拠もない土台の上に古典物理学が成り立っていることを考えれば、科学は砂上の楼閣だ。ニュートンの力学体系は厳密に正しくないことはすでに証明され、アインシュタインの相対性理論が新たな仮定として採用されたが、これも仮定である。現状誤りがないだけだ。
特に、量子力学では○○解釈という理論が多い。○○理論ではなく、○○解釈なのだ。
科学でさえ相対的な真理を追い求め始めたということだ。絶対的な説など作りようがない。

参考資料

◆◆形而上学入門 / マルティン・ハイデッガー/著 川原栄峰/訳 / 平凡社


ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫) [ 広川洋一 ]




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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他