レモン哀歌

「レモン哀歌」 高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

先日、レモンにまつわる話をきっかけにレモン哀歌の話題になった。レモン哀歌は国語の教科書にも載り、多くの人が子供の頃に読んだことがあったと思う。私は再度読み直したところ、この詠の素晴らしさに気づいた。

内容

光太郎は智恵子の病室にお見舞いに来ていた。智恵子は自殺を何度も図るほど精神を病み、正気さはもはや失って居た。それでもなお、光太郎は愛しているゆえに彼女に会いに行く。

レモンの花言葉は「誠実な愛」。聖母マリアの木と言われ、キリスト教圏で誠実な愛という象徴であることが所以である。レモンの花というか、レモンというそれ自体が誠実な愛の象徴ということだ。妻に生きて欲しい、そう願ってやまなかった。

天のものなるレモンの汁は

というのがそれを表している。

光太郎は諦めていなかった。きっと何度も妻に呼びかけ、そして正気を失いつつあり、衰弱しつつある彼女を見て何度も絶望したことだろう。しかし、光太郎はその日気付いてしまう。妻はもう死ぬかも知れないと。

かなしく白く明るい死の床で

かなしい場所であることは自明だ。しかし、死の床。この表現はもう智恵子が回復せず、その病室で死ぬことを暗示しているようではないか。
病院とは本来病人を治療する「生」のイメージと、終焉を迎える「死」のイメージ、相反する二つの象徴をもつ。何故、「生」の象徴として病室を描かなかったのか?
それは、智恵子の死期を悟ったこと、そしてこの詩歌の本質にある。

レモン哀歌の本質、それは回光返照である。
ろうそくの火が燃え尽きる直前に大きくなるように、無へ還る直前に勢いを取り戻す様を言う。
人というのは死ぬ直前が一番美しいのかも知れない。生きている間、人間は必ず欲望というものにまみれてしまう。略奪、暴力、そんな歴史は無数にあるし、暴言を吐き、悪事を働くことはだれでもありうる。そんなものを人間は美しいとは感じないだろう。
しかし、死ぬ直前だけは別だ。生きる本能により生まれる欲望が一切なくなり、心が澄み渡る瞬間である。人生の終止符、それはまた、命がけで生きて来た人生の総括である。生きたい、生きたいと必死に生きて来て、自分の行為を正当化する連鎖を繰り返してきた我々は、死ぬその瞬間にその正当化の連鎖が止まる。画竜点睛を欠く。不完全なミロのヴィーナス。不完全な最期だからこそ、我々は心打たれる。
人は深い関係、例えば両親や配偶者、知人の死を経験することで「人は死ぬ」ということを真の意味で理解する。人が死ぬのは自明である。しかし、それを受け入れることはだれもできていない。
そうした「人の死」は我々に様々な影響を与える。喜怒哀楽、幸不幸を我々に思い出させてくれる。それほどに死ぬということは人間にとってかけがえのないものであり、死ぬ直前というのは人生の感情全てが怒涛のごとく押し寄せる。

レモンを齧ってしまった智恵子は、その辛さによって今まで考えていたことすべてが吹き飛ぶ。「からい」、これしか考えられない一瞬があった。
この空白の瞬間により、智恵子は正常な意識を取り戻し、自分の死期、夫の存在を悟る。
そして智恵子はやったのだ。画竜点睛を描く。生涯の夫との愛、その幸せだった過去を思い出し、その愛を見事完結させた。最期の最期に智恵子は幸せを取り戻し、そうして亡くなったのだ。

荘子には妻が居た。
ある日、突然妻が死んでしまい、その葬式が行われた。荘子は太鼓を叩き、愉快そうにしていたそうだ。知人が話を聞くと、こう言った。
「私も最初は泣いた。しかし、これは自然の摂理だ。どうやっても死ぬものは死ぬ。それに、妻は安らかに、幸せそうに眠ったんだ。私が死んでかなしい、置いていかないでくれと騒ぎ立てることなんてできない。」と。

愛が完成したということだ。本当の愛に触れることができたということだ。光太郎も荘子と同じように、完結させた。
だから微塵も不幸感を感じることなく、幸せに満ちた人生だったと今日もレモンを置くことができるのだ。




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・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他