ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」

ネーゲル著「コウモリであるとはどのようなことか」
の一章「人生の無意味さ」を解説する。
我々はいま生きている。
何故生きている?そこに意味はあるのか?
考えだしたらやめられない。この疑問を発した瞬間、我々は哲学の第一歩を歩み始める。
決してその歩みをやめることはできない。ヒトは何故生きるのだろう。考えただけで怖くなる。自分の正当性を否定されているような気がして。

さて、私が思うにこうなった我々には幾つか解決法がある。

  1. 神の存在を肯定すること
  2. 疑問を突き詰めて考えること
  3. 疑問を考えないようにすること
  4. 自殺
  5. その他

大体がこの内の何処かに入るだろう。

まずは1について考える。

例えばキリスト教は神によって造られた人間であるから、人間を辞めるため自殺することがあってはならないし、人間は神によって正しい存在だと正当化されている。
これも一つの方法だろう。神は実在するかもしれない。しないかもしれない。それを判断することは我々にはできない。
日本人は神は居ないと盲信する傾向にあるが、科学的な視点から見ても、神の存在を否定することはできない。

さて、ここで正当化の話をしよう。

ミュンヒハウゼンのトリレンマというものがある。何かを正しいと証明したいときは必ず以下の三通りに分類されるというものだ。

  1. 無限後退に陥る
  2. 循環論法になる
  3. ある絶対的な仮定を認める

1.の無限後退は、Aが正しいのはBだからだ。じゃあなぜBが正しいか?Bが正しいのはCだからだ。じゃあなぜCが正しいか?Cが正しいのはDだからだ。…と無限に理由を求めることになってしまうということだ。これは結局、正しいことを証明できない。
例えば、人間は何故聴くことができる?それは耳の中に小人が住んでいるからだ。じゃあなぜその小人は聞くことができる?その小人の耳の中に小人が住んでいるからだ。……

2.の循環論法は、Aが正しいのはBだからだ。じゃあなぜBが正しいか?Bが正しいのはCだからだ。じゃあなぜCが正しいか?Cが正しいのはDだからだ。じゃあなぜDが正しいか?Dが正しいのはAだからだ。
このように議論が循環していることをいう。
例えば、実数って何だ?それは有理数と無理数を合わせたものだ。じゃあ無理数ってなんだ?それは実数から有理数を引いたものだ。議論が循環している!

3.の絶対的な仮定を与えるというものは、「これは正しいからこの先は考えない」と考えるのを打ち止めにすることだ。

数学で言えば定義や公理、神学で言えば神の存在がそれに当たる。特に、数学は与えられた定義を許容する。その定義から先を厳密に測る学問だ。

2.疑問を突き詰めて考えること

これも一つの解決法だ。デカルトのように全てを疑い尽くすのだ。やがて世界は無意味であることを知り、受け入れることが出来るだろう。コギトへの第一歩である。
中途半端に考えた人間は無意味さを受け入れられず自殺する恐れがある。良く考えた者だけが無意味さを受け入れられる。
ブッダの生き様はこの2であった。彼が言うには、「世界のあらゆるものは無意味で無価値だ。人間はそれを受け入れられないから苦しむ。」(意訳)と言った。

3.疑問を考えないようにすること

これは東洋思想に深く根付いている。考えても無駄なことを考えないようにするのが東洋思想で、それを考えるのが西洋思想の傾向がある。
例えば孔子は、「死後のことなど考えても無駄だから今生きることを必死にやればいい」と言った。
確かに、何故生きているかどうかなどいくら考えても答えは出ない上、なんの役にも立たない。ならもっと意味のあることをしようというのも頷ける(意味のあるものって何だという疑問が生まれるが)。

4.自殺と5.その他は省略する。

これまで、ヒトが何故生きるか等の疑問に対する解決法を述べてきた。これらを踏まえて、ネーゲル著「コウモリであるとはどのようなことか」のある1章「人生の無意味さ」について解説しよう。

 ネーゲルの主張

既存の主張の批判

人類史上、我々は既に人生が無意味であるという議論はされている。人生が無意味であることを主張する主要な意見は、

  1. 人間はちっぽけ
  2. 未来には(例:百万年後)我々のしたことは全て重要ではなくなっている
  3. 人はいつか死ぬから自己正当化が完結しない
以上の3つであるとネーゲルは言う。ネーゲルはこれらすべては薄弱な意見だと批判する。
順番に見ていこう。

1.我々はちっぽけな存在である

我々のすることは宇宙から見ればちっぽけだ。パスカルの言った、「人間はちっぽけな葦である。しかし、それは考える葦である」からも分かるとおり、我々のすることなど世界からみればささいなことで、じゃ一体何のために何かをするのか、というのがこの主張である。
これに対してネーゲルは批判していて、「じゃあ我々が物理的に非常に巨大だったら、永遠に生きていられるとしたら無意味じゃなくなるのか?」と言っている。我々はちっぽけな存在でなくても無意味なのだ。

2.未来には我々のしたことは重要ではなくなる(無意味になる?)。

我々はエジプト人がいた事を知っている。だが、具体的に誰がいたのかはわからない。エジプト人のある人は死にものぐるいで必死に生きたかもしれない。それは今の我々にはわからない。
ジョージバークリーの言った、「存在するとは知覚されることだ」という言葉が思い出される。数千年後には我々は存在しなくなってしまうのだ。著名な人も、人類が滅亡すれば知覚されないのだから存在しなくなる。
いまやっていることはのちに重要ではなくなるのだ
これに対してネーゲルは批判しており、「あるものが重要であることを重要たらしめるのはそれが今重要であるかどうかである。百万年後に重要でなくなるようなものは今の時点で重要でない」と言う。

3.正当化できなくなる。

例えば、頭の良い中学に入学するため小学生で必死に勉強する。頭の良い中学に入学したら、頭の良い高校に入るために勉強する。「頭の良い高校に入る」ために「頭の良い中学に入った」のだから、「頭の良い中学に入学するという自分の行動」は正しくなる。
さて、頭の良い高校に入ったら頭の良い大学に、そうしたら優良企業に、そしたら良い立場に、お金持ちに、良い配偶者を見つけ、云々と自分の行動を正当化してゆく。
しかし人は死ぬ。最後の行動を正当化することは自分には出来ないのだ。やっぱり人生は無意味だね。いうのがこの主張である。
これに対してネーゲルは批判しており、「人が永遠に生きられるとしても正当化はできない。無限後退に陥るから。」と言う。
やっぱり正当化できないじゃないか。

ネーゲルの独自解釈

ネーゲルは既存の人生は無意味の主張を一通り批判したあと、独自の主張を繰り広げる。

あらゆるもの確かに無意味だった。それにふと気づくときがある。今、どうして勉強しているんだろうと考えたら、すべてのものが無意味に見えてくる。
しかしすべてのものが無意味だから人生が無意味なんじゃない。無意味なものに取り囲まれながら、それでもその無意味な状況に身を置かなければならないところに無意味さがあるんだ。どんなにこの人生が無意味だと理解しても、自殺を除いてその無意味な人生から逃れる術はない。
これこそが人生の無意味さなんだ。

ネーゲルはそう言う。
人生の無意味さに気がついたら対処法は4つある。(先の解決法はえいとさんの意見です)

  1. 自殺
  2. 忘却
  3. 無意味さを強く受け入れる
  4. 茶化しながら生きる
1.から3.は説明済みだ。
4.はネーゲルの推奨する生き方だ。人生は無意味なんだぜと皮肉しながら生きるということだ。直接向き合う訳でもなく、そこから逃げるわけでもない。この生き方が一番楽だよとネーゲルは主張する。

◆◆コウモリであるとはどのようなことか / トマス・ネーゲル/著 永井均/訳 / 勁草書房




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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他