「非難」の分析

先日筆者の発見した「非難」を読み解き、批判の大切さを述べる。

批判は悪いものじゃない。
数学科に入ってまず言われたことだが、「論理的矛盾を見つけたり、質問があったりしたら直ぐに発表者に聞くこと。批判されると怒り出すやつがいるが、それは論理で説明ができない弱者だ。批判されることは攻撃されることではない。互いに批判することで高め合うんだ。」と言われた。
ここで先に批判の定義を述べておく。
批判の定義:良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること

読みづらくて申し訳ない。
これは私がピアノ曲をyoutubeで検索していた時のことだ。コメント欄を見たとき驚いた。随分と詭弁者の多いことだと。

Jさんの主張

Jさんを見てほしい。
彼の主張していることは
「楽譜通りに弾くのではなく」
「人に聴かせられるようなら」
「もっと良くなると私は思った」
「私は不快に感じた」
この4つである。

「楽譜通りに弾くのではなく」というのは、楽譜を見てそれをそのまま弾いているようで、良く言えば正確、悪く言えばぎこちないということだ。
楽譜通りに弾くのは機械にもできる。感情移入も大切だと主張している。

「人に聴かせられるようなら」というのは、機械的な演奏は人を惹きつけないというのを主張した上で、機械的ではないように弾いて人を惹き付けられるようなら、ということだ。

この2つを踏まえて「もっと良くなる」という感想を持ったと主張した。
ここまでは非常に明快で、相手の不十分なところを指摘している。一つ不満があるとすれば、機械的なのがどこであり、どのように弾けばよくなるかなどの具体的内容が欠けていることだが、感想であるからそれでも別によい。
これは批判の定義である「良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること。」をきちんと満たしている。主張もわかりやすい。

そして、これこれこういう点で下手くそだから「私は不快に感じた」と結論付けているわけだ。
「この意見は私の主観」ということが大事であり、それは後にわかる。

私はこの主張を見て、何ら不快感は沸かないし、このようなコメントは演奏者の技術向上にもなるため、良い意見だと思う。特別優れているわけではないが。

マゾの主張

これに対して、マゾさんは
「感想を書くのは自由だけど揶揄は心地よくない」
「現にこれだけの支持を得ているから評価が高い」
「個人の主観で早計に蔑視するのは良くない(社会的に浅慮)」
「補足として、譜面通りに弾かないなら何を引くのか?」
以下罵詈雑言と主張する。
一つ一つ検討してみる。

「感想を書くのは自由だけど揶揄は心地よくない」

言論の自由から、感想を書く自由は皆持っているが、揶揄することは他人に不快を与えるから控えるべきだという発言だ。

これは一見理にかなっているが、揶揄の意味を理解していない。
揶揄というのは「からかうこと」だ。あなたの発言は揶揄だと主張したいのなら、まず揶揄の定義を述べ、実際に相手の発言のどの部分がどのように揶揄の定義を満たしているのかを言うのが最も適当だ。
実際はそこまでする必要はないが、そうでなくても最低相手のどの主張が揶揄なのかを明示すべきだと私は思う。
マゾが詭弁家な所の一つとして、相手の主張の中身に触れずに主張全体が揶揄だというレッテルを貼り付けて、第三者に「ああ、あの主張は揶揄なんだ」と思わせているところだ。

「現にこれだけの支持を得ているから評価が高い」

これが最も意味不明な一文。「あなたの主張は揶揄なので駄目です。この演奏者は高評価なのでやっぱりあなたの主張は駄目です。」と言いたいのか?と考えていると、どうやら次の一文に掛かっていたようだ。
接続語「現に」が不明。現にとは、「実際に」という意味だ。
用法は、「A,現にB」だろう。「Aであり、実際BだからAだよね」となる。
「現に」という言葉が出たら、それ以前に自分の理屈を話しておく必要がある。
何度も言うが、「その理屈は実際に(現に)こうだからやっぱり正しい」というのが「現に」の用法だからだ。
現にA,Bとも言うのだろうか?もしかしたらいうのかもしれない。私の浅慮か。

「個人の主観で早計に蔑視するのは良くない(社会的に浅慮)」

おそらく、現に以降はこの一文に掛かっていたのだと思われる。「貴方の主観で勝手に決めつけるな、実際この演奏者は高評価なんだぞ」という主張か。
さて、今回のこの一文も詭弁が使われている。
Jさんは「〜と思う」と言うことで、これらは自分の主観だと言っていた。
マゾさんは「貴方の主観」というキーワードを使うことで、Jさんの主張は主観的なんだと第三者に認知させ、相対的に自分の意見が客観的であることを暗に狙ったものと思われる。
そもそも、人の主観にわざわざ立ち入る必要はないだろうに。議論するつもりは毛頭ないからこそ「私はそう思う」と主観的感想に引き下げたのに、それに対して客観的な主張を言えばそりゃ相手が困るだけだ。

「この服かわいい」と言っている相手に対して、「かわいいの定義が不明だ」と返答したら相手が困る。私なら言わない。
主観とはどこまでいっても自分視点なのだから、相手が何を言ったところで変わらないし、議論や批判とは客観性のある主張にたいして客観性のある主張をぶつけることで成立する。とことん相手の困るところを突いているわけだ。

どんなに社会的に浅慮であったとしても、個人に干渉して辞めさせることはできない。JSミルの主張した愚行権である。どれほど愚かである行為であっても、それが他人に危害を及ぼさない限りそれをする自由がある。
確かにJさんは浅慮かもしれない。そもそもクラシックなど一度聴いた程度で本質などわかるはずがないのだ。しかし、「個人の主観」という立場を取っている以上、その浅慮さを批判することは出来ない。
これが客観的な視点なら話は別だ。
「あなたは機械的だと言いましたが、それは具体的にどのあたりが機械的なのか、人に聴かせられるようすべきとはあなたの主観ではないのか」と反論が飛んでくる。

「補足として、譜面通りに弾かないなら何を引くのか?」

これこそ詭弁の真骨頂。第三者に相手の主張を文字通りに解釈させることになる。
「楽譜通りに弾くのではなく」とは自己アレンジしてということではなく、自身の感情を込めてということだった。
わざわざこのように書くことで、「ああ、あの意見はそういうことなんだ」と第三者に誤った解釈をさせる。ずるい手だ。

以上、マゾさんの主張を私なりの論理で解釈してみた。マゾさんが最後に「これは私の主観です」と書いていたら、私は「ああ、こんな変な論理もあるんだな」と感じる程度でおわったろうが、その一言がないために客観的な論理の尺で測ることができてしまった。とはいえ、今回の論理の尺は私の論理であるが。

マゾさんは何故こんな訳の分からぬ主張をしたのだろうか?

それは、自分の好きな演奏家が批判された、つまり自分の価値観を否定されたからそれを覆さなければならないという感情が先に動いたからだ。
「批判したい」から生まれた主張は自分の都合の良い論理に依るものだ。客観性のある論理とは別物である。
批判をするのなら、先に「論理的にここが違うんじゃないか?」という発想がうまれて、その後に批判するべきだ。

サルトルは言う。
個人の意見が非常に大切だと。個人の主観はどこまで行っても個人の主観だが、それを互いに交換することで普遍化され、より良い普遍的な客観に昇華する。
個人の意見は発言するのがよい。そして、その内容に対しては批判されるべきではない。ただし、発言それ自体など別の要因で否定されることはあり得る。

理想はアマゾンレビューのように自分の意見をごろごろと連ねることだろう。

批判は受け入れよう。非難はしないようにしよう。




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ABOUTこの記事をかいた人

・東京理科大理工学部数学科一年の大越英叶。 ・みんなからは親しみを込めて「えいとさん」とよばれる。 ・読書、哲学、数学、クラシックがだいすき。 ・世の中は無常だということを最近理解し始めた。 ・好きな分野:哲学.倫理学.物理学.数学.神学.神話.タロット.C言語.文学.古典.その他 ・苦手な分野:歴史.芸能.地理.時事.ファッション.芸術.アニメ.漫画.経済.その他